あの日、思考が止まった。
診察室のドアが静かに閉まり、白衣の先生がこちらを見つめた。
「次のステップ、体外受精も考えた方がいいですよ」
その言葉が空気を切り裂いた瞬間、時間が止まったような気がした。
…え?今、なんて?
思考が追いつかないまま、先生の手元から一冊の冊子が差し出される。
「この冊子に詳しく書いてあるから、読んでおいてくださいね」
重たく感じるそれを、私は黙って受け取った。
聞きたいことがあるはずなのに、頭の中は真っ白。
何を聞けばいいのかもわからない。
それでも私は口を開いた。
「……ありがとうございました」
ようやく絞り出したその言葉を最後に、診察室を後にした。
ふと、自分でも驚いた。
思考が止まっているのに、手は冊子を受け取り、体は自然と頭を下げ、足は診察室を出ていた。
30年以上も人間をやっていると、心が止まっても、体が覚えているものなのかもしれない。
これは、私が体外受精を選ぶことになった日の記憶。
今でも、診察室のあの静けさと、先生の表情をはっきり覚えている。